平成になって初めての国家試験で医師になってから25年あまり、そして本格的に乳腺外科を始めてからいつの間にか19年がたちました。
がん専門病院に1年間研修に行った以外は札幌市内の関連病院でほとんど乳腺患者さんばかり診療してきました。がん専門病院と私たちの病院のような一般病院では役割もできることも異なります。それぞれの良さ、欠点があります。
今の病院では、外来患者を診ること、検診をすること、手術をこなすこと、病棟患者を受け持つこと、日当直や救急患者に対応すること、他の地域の内科の手伝いに中期的に行ったり、道内の関連病院へのローテーションをこなすことなどが求められます。研究は自主的に行なって学会にも参加していますが、したくないならしなくても評価は下がりません。もちろん、他の職種への指導は別に求められてはいません。
実は私には持病があります。正常眼圧緑内障という眼圧は正常でも視野が狭くなっていく病気です。診断されたときにはすでに両眼ともかなり進行していて手術は危険な状態だと言われました。そして10年前には、いつ失明してもおかしくない、合併症のリスクも高いけど手術をするかどうか考えるように関連病院の眼科主治医に言われました。その主治医は、自分にはこのようなリスクの高い手術の経験はないから、と緑内障専門病院を2カ所紹介されました。札幌の有名病院では「すぐに手術しないと失明する、それ以外の選択肢はない」と言われましたが、東京のT病院では「手術はまだ勧められない。失明はあと2年は大丈夫、でも5年はわからない。」と言われたため、それならまだこのままでいようと考えて手術を受けるのをやめました。
結果的には今もなんとか見えていますのでこの時の判断は正解でした。なぜなら手術で眼圧を今以上に下げてしまったら視力が著しく低下して外来診療もできなくなっていたからです。がん患者さんの予後告知と同様、あくまでも統計的な数字ですので患者個々にとっては必ずしもこのような医師の予測が当たるわけではありません。このような経験も踏まえて、私は差し迫った必要性がある場合以外は基本的に予後告知はしません。
ただ視野狭窄が高度であることは確かでしたので、患者さんにリスクを負わせてはいけないと考え手術の執刀からは徐々に手を引いていきました。そしてその後は悪化のスピードは落ちたもののやはり少しずつ進行して現在に至っています。ですから緑内障が悪化した時点で、私はすでに”乳腺外科医”ではなくなっていたのです。乳腺センターができてからは管理業務が新たに加わったため、一応センター長という立場を与えられ現在に至っています。
給料をもらっている以上、なんらかの形で病院に貢献しなければなりません。自分の病気によってさまざまな業務への支障をきたすことが入院患者さんに誤解や迷惑を与えてしまうことを避けるために、やむを得ず病棟を離れ主な仕事を化学療法と検診を含めた外来に移行していきました。そしてもう一つ、私の使命と感じていたことがあります。それは、乳腺外科医と乳腺外科医を支えてくれる技術職の職員を育てることです。これはもともと力をいれていたことではありますが、病気が悪化してからは、彼女たちの成長が自分の遺産のように感じていました。もっともっと彼女たちに成長できる機会を与えてあげたいと考えて、学会にも演題を出しながら一緒に行くようにしてきました。
ただここ数年で技術職の職員たちの自主性が育っていることや、N先生が加わってG先生の負担が軽減してきたことで私が果たしてきた役割もそろそろ終わりを告げる時期が来たのではないかと感じています。
いま自分ができることの中でいままでやりたくてもできなかったことってなんだろうか?とか最近よく考えています。そもそもこのブログを始めたのは、こういうことが自分がやりたかったことだからです。診察だけでは不十分な情報をわかりやすく説明してあげたい、嘘や間違った情報から患者さんを救ってあげたい、などがきっかけでした。このような活動を自分の主たる生業にできないかということをここ数年ずっと考えてきました。しかし実際は簡単なことではありません。
生活を維持しながら自分に適したやりがいのある生き方を見つけること、それが当面の私の課題だと思っています。”乳腺外科医”はとっくに卒業しています。できれば”乳腺科医”は最後まで続けたいものです。